syakasyakapotetoのブログ

中国古代の儒教家から、帝王学、社長、民衆、政治の心理学を学ぶ。

大学・中庸 訳注 金谷 治『 誠 』

まずは


訳注 金谷 治さんへ


こんな素晴らしい書籍を書いてくれて


ありがとう


訳注 守屋 洋さんへ


すいません、おもしろくなかったので捨てました
リアリティが金谷 治さんと比べて、いまいちなのと、三国志の話が多すぎるのと
俺は本読むのは直感なんで、内容は関係ありません。


大学・中庸 訳注 金谷 治 『 誠 』


※本文参照


何事でもひろく学んで知識をひろめ、くわしく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析して判断し、ていねいにゆきとどいた実行をする。それが誠を実現しようと努める人のすることだ。まだ学んでいないことがあれば、それをじゅうぶんになるまで決してやめない。まだ質問していないことがあれば、それをといただしてよく理解するまで決してやめない。まだよく考えていないことがあれば、それを思索してなっとくするまで決してやめない。まだ分析していないことがあれば、それを分析して明確になるまで決してやめない。まだ実行していないことがあれば、それを実行してじゅうぶんにゆきとどくまで決してやめない。他人が一の力でできるとしたら、自分はそれに百倍の力をそそぎ、他人が十の力でできるとしたら、自分は千の力をだすもしほんとうにそうしたやり方ができたなら、たとい愚かな者でも必ず賢命になり、たとい軟弱なものでも必ずしっかりした強者になるであろう。


※俺の事言ってるのかと思いました。後半の太字なんてまさに俺ですね、他人がどれだけ天才又は凡人でそこにわずかな、長い時間をかけて習得した内容を1としても、俺はその1を習得するためなら10倍でも100倍でも時間を惜しむ気はない、自分が必要としている以上は他人との能力の比較は学ぶ過程に対しては、一切の意味も価値も必要がない。
他人がそこまで歩むのに1ヶ月だった、俺は1年かかった、でも大事なのはいつスタートするか、他人は常に同じ土俵にはいない、自分だけがいる。


誠が身についた人は、自分の本性の誠を発揮する人だから、自分で自分を完成して
いくのである。そしてそのふみ行う道は、本性に従う道であるからその道自体が誠の現実へと導いてくれるものである。


※俺の事いってんのかと思いました。自分で自分を完成させていく道がわかっているだけに偉大な人物を崇拝する事も、他の干渉も、俺には一切の意味も必要もない。多分それは前項が理解できているから。一番最初に釈迦を習得しているのが大きいかもしれない。
そして釈迦から学んだだけに孔子をみても、『 聖人 』は皆、同じ事いってるな~で終わり。親鸞とかの流れもしってるだけに、孔子があっての孟子、韓非子、大学・中庸(孔子の子孫)その他、なんだなと内容もグレードがさがるのも初代にはかなわないのが、わかる。


誠が身についた人は物事の始まりと終わりを定めてそれぞれに成り立たせる。誠によって誠実におこなうのでなければ、物事は、成り立たず、存在しない事になるのだ。こうして君子には誠を実現するのを貴重な事と考えるのである。



誠が身についた人は、自分で自分を完成するという事だけではない。それはまた、自分以外のすべての物事を完成させることになってくる。自分を完成するという内面的なはたらきは仁の特にあたり、物事を完成するという外的なはたらきは知の特にあたる。してみると、誠は仁、知と同様に本性に根ざした徳である。そして、外と内とを一つにあわせる立場にある。だからこそ、どんなときでもこの誠を働かせていってもうまくいくのである。


※中庸・大学又は孔子いわく、徳と知が両立してこそ『 誠 』となる。

大学・中庸 (訳注 金谷 治)仁義礼とROCK 

隣の家がうるせ~から、朝市で110番してやったら
警察5人もきて、近隣調査していたよ


キチガイには110番。


俺がいったら、家に熊をはなつようなもんだ


なのでここは警察にまかせるのが賢者の知恵。


俺はいつも85歳になっても、忘れない事がある。


それはいいとして。


人生はROCKだ


誰にも媚びず、誰も頼らず、誰にも従わない


ただ、心が正しいと思うがままに書く


それがROCKだ


今もこんな、最高の音楽を聴いて書くと決意した


めんどくせ~ かきたくもね~ つまらね~ ランキング重視な事は書かない


魂が動かないと、俺は何もしない



俺の魂は、またPENGYOUの共鳴でしか做YANGDONGかない



【作業用BGM】ノリノリ!マジカッコイイ洋楽ロックでスタートダッシュ! #32【RIGHTCORE】


大学・中庸 訳注 金谷 治 仁義礼


※本文参照


孔子いわく


仁とは人であって、人と人と親しみあうことである。
親しい肉親を親愛することが最も大切である。


※親を親愛するという意味は親も親愛できない者に他人を国を親愛できるものかと
いった説明ですが、現代では孔子の時代では予想もつかないレベルの狂った親がいます。


孔子いわく、孔子の定める条件をも崩壊させた政治をした時はもはや、『 仁徳 』が通用しないと説かれています。現代で言うモンスターペアレンツの事です。
孔子いわく、政治によってモンスターが出現した時には孔子の『 仁徳 』でも正常化は不可能と説いています。


孔子が想像できない、狂った親も現代ではいるのでこれはあくまでも、人の道の模範的な説明です。


平成では通用しない。


義とは宜であって、ものごとに応じた適宜のあり方を得させることである。
肉親の情をこえて、賢人を賢人として尊重することが最も大切である。


※義とはヤクザの仁義、親(組長)の為に、男(恩)をたてるために命をかける
ではないんですね。義とは天地に従い、仁に従い、天地の意のままに私利私欲を捨て
君主、民の為に公平な判断をする、『 聖人 』を尊重するという意味です。


肉親を愛することにも親疎による差別があり、賢人を尊重することにも才能による区別が
あって、そうした区別こそ礼の起こる根拠である。つまり礼とは仁と義とを節度づけて
飾るものである。


※礼とは仁と義がなければ、信用する価値なしという意味です。


従って、政治の中心となる君子はわが身をを正しく修めなければならないが、
わが身を正しく修めたいと思えば、親によくおつかえし、肉親を親愛しなければならないし、親によくおすTかえしたいと思えば、人の事をよくわきまえて賢人を尊重し、なければならない。そして、ひとの事がよく解りたいと思えば、究極の天を知らなければならない。


※これはいわゆる、君子たるもの、聖人たるもの、この領域にたっするには
順番をもって当時でいうなら、『 四書 』大学・中庸、論語、孟子、等を学んでこそ
といった意味です。それを学ぶ過程に『 聖人 』になる内容が全て書かれているという意味。

大学・中庸 (訳注 金谷 治) 孔子は釈迦

韓非子、孟子、孫子、荘子、大学・中庸と読み終えてわかった事があります。


孔子は釈迦のごとく、世の心理学を究極まで分析できた唯一の偉人です。
しかし釈迦と同じ、心理学のいきつく所で、人は救える側と救えない側とそれらを説ける側(釈迦、孔子)に分類される究極論にいきつき、少しあっけらかんと悟りを説いています。


しかし、私的には孔子もいわく『 愚者は歴史ばかりに重んじて、現代の道理から答えを導かないとも 』説いています。それを言うなら戦国時代や春秋時代と昭和、平成の国も違えば文化の変化との違いです。導く聖人とは時代によって改善していかなければいけない。かといって、それは過去の文献も全て習得した『 聖人 』の境地で、さらなる改革へ挑む救世主の様な姿勢であり。決して間違えた崩壊論を正しいとなんていってたら『 キチガイ 』です。


簡単に例えれば、昔は聖人や君主の『 仁徳 』こそ国を滅亡させない、絶対的な価値観であり、その為に『 賞罰 』を徹底し、臣下ごとに『 法 』を徹底したわけです。
しかしそれはあくまでも昔の体制だから。そして当時は孔子も全ての聖人が恐れた事があった、それは継承できる『 聖人 』が時代が資本主義になるにつれ誕生しなくなった事、その理由は『 聖人 』について考える思想が人々には必要なくなってきたという事です。


現代を見ればわかるように、世界と違い、日本では他人から命を奪われることもなく、誰も生活をする中で、政治に興味をもつ必要がなくなり、ただ義務教育で物心つく時は学校で虐める側、虐められる側、それをみてみのがす側の3種類に分類される事が学校教育での『 間違えた法(生存のルール)の教育 』があり。
後は成績によって有名大学へと進む、大手企業で生涯年収を掴む為だけに、勝組負組という『 間違えた仁徳(人格形成)の教育 』があるだけです。


ここが海外と日本の圧倒的な違い


人権の尊重、人とは個性であり、生存の為に戦わなければいけないと主張する『 自己責任 』という仁徳を日本では教えないからです。


現代の学校教育では義務教育であるが為に、過去の聖人と呼ばれる偉人達が継承しようと
命をかけた、学問教育が皆無だという事ですね。何故なら教育する先生そのものが『 仁徳 』『 聖人 』についての知識と認識が『 日教組の教育体制 』によって皆無だったからです。


孔子いわく、『 どんな時代も偉大な聖人、賢者がいなければ、どれだけの文献や知識がが遺産として残っていても反映される事はない 』と説いています。
知識は知識でしかない、それを活用できない者、『中庸を素晴らしいと言いながらも、1ヶ月もたてばそれらを忘れていく者』を『 知者 』とは呼べるわけもないだろうと。


そして、孔子が説く『 中庸 』にもとかれている『 聖人 』とは
聖人に達すれば天地と並ぶ力を手にするのと同じと説かれています。
ここでその『 聖人 』にはどれだけの勉強量が必要かというなら


まず『 仁徳 』を学び、釈迦や孔子やマホメットの領域にたつ必要があり
各国にいた、釈迦レベルの文献を学習しなければいけません


次に『 現代文化を理解する為にも、事のなりたちと歴史と文化のなりたちである心理学、過去の政治論理 』を学ばなければいけません
日本政治はレベルが低すぎるので『 仁徳 』『 聖人 』を学べる日本の政治家はいないでしょう、学ぶなら中国、アメリカという所でしょうか、そこで『 韓非子 』が私的には政治理論は一番いいです。


欲望に負けてしまい、欲望から逃れられなくなった著者の本は『 言いわけばかり』
だからこそ、『 聖人 』から学ぶ必要がある。


次に『 戦争とは何かを知る為の、人々の究極の欲望論 』を学ばなければいけません
究極の悪とはその心理、操作、戦術を知恵として対処方法として学ぶという事です。


ここでようやく、政治を理解する上でのぶれない軸が土台だけが整うわけです。


孔子いわく


知恵を学ぶからこそ心を安定できる
心を安定できるから、仁徳を安定できる
仁徳を安定できるから、家庭を安定できる
家庭を安定できるから、国を安定できる


中庸には、知と徳と勇がなければ何一つ成立できないみたいに書かれています


知とは知恵を磨く修行、徳とは仁徳を磨く修行、勇とは恥を認める心の修行


これらから、いえるのは、これらの文献を学んだ位置はいわゆるスタートラインで
しかないという事です。
孔子でいうなら、『 知恵を学ぶからこそ心を安定できる 』
中庸でいうなら、『 知 』


にしか該当しないと思います。


知を習得できない以上は、『 仁徳 』さえも習得できる領域ではないからですね


どんなに釈迦や孔子を学んでも、それだけでは駄目なんです、それはあくまでも『 聖人 』を学ぶジャンルの一部でしかない、『 人徳 』だからです
。どんなに仁徳があっても『 知 』がなければ、


ヘイストピーチが仁徳になっている政治家に総理をやらせるようなものです。


全てが整わない事には、心を安定させ、和を与え、誠を理解し、国を平和へと導き、実行する事ができないんですよ。ましてやヘイストピーチなんてレベルにも該当しない
ジョブがもはや、孔子いわく、政治家ではいけないんです。


日本では本当に言葉の間違えた解釈が多すぎることが、中庸をみて理解しました


和、誠、仁、徳、日本で使われている意味と全てが違うのと、日本人が勝手に


自分本位に解釈しただけなんでしょうね。


本当に日本から学ぶ事なんて、何もないのだなと、これらの書籍をみて思いました。


そして、もし現代に光明をさす、名言があるとしたら
私的にはこう思います。


孔子が説く、聖人、君主だけが『 法 賞罰 』によって統制していた時代は終わり、現代はその『 法 賞罰 』はネット、メディアによって国民こそ釈迦や孔子の仁徳によって、その力を最大限に活用できる時代がやってきた。
もう政治家が『 仁徳 』をメディアでひろげようとするよりも、個人の集合体の方が
より影響力のある時代がやってきた。



だからこそ、釈迦、孔子、韓非子、孫子を学ぶその『 仁徳 』『 知 』があれば
誰にでも平等に世論の代表になれる権利があり、個人個人の国や国民を思う気持ちが政治力となる時代がやってきたと


※その証明として、政治家の言葉よりも、TV番組(特に芸能人)が一番、国民性としての影響力が強いし、その芸能人達も国民の声に恐れているわけです。


孔子なら、こういうだろう。