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中国古代の儒教家から、帝王学、社長、民衆、政治の心理学を学ぶ。

韓非子(著者 金谷治)第一巻 4項愛臣~5項主道 

韓非子 第一巻 4項 愛臣(諸侯が大きくなり、重臣が豊になりすぎると、天子や君主が危険になるといい、その対策について)


※本文参照


寵愛する臣下はあまりには慣れ親しむと、必ず君の身をおびやかすことになり、
重臣はあまりに高い身分になると、必ず主君の地位を奪うことになります。
正夫人と第2夫人代3夫人の夫人との間にはっきりした区別をつけておかないと、必ず、
跡継ぎの身が危うくなり、主君の兄弟が喧嘩していると必ず国の存立をおびやかします。
このような格言がある『 兵庫千台の国の君が警戒を怠ると、兵庫百台の家臣が側近で頭を持ちあげ、民主を自分のほうに手なずけてその国を倒すようなことになる。 兵庫万台の大国の君が警戒を怠ると、兵庫千台の家老が側近で頭を持ちあげ、君主の権威をわがものしてその国を倒すようなことになる。』
以下省略。


※君主という運命はよもや、ピラミッドでいうなら自分より下の層に、1瞬たりとも
心を許しては、そのポジション間から邪臣が誕生するという、運命なのだと私的に感じました。聖人以外は信ずるなという事ですね。韓非子いわく、聖人が君主に出仕の礼物を捧げたからには、まはや彼には二心は決して抱くことはない、それが『 聖人 』であると説いています。聖人ともまたそのような運命から誕生しているという意味ですね。


聖人と邪臣は常に戦うような関係もまた、運命なのでしょう。


韓非子 5項 主道(君主の守るべき道)


※本文参照
道とは万物の起こる初めであり、是非の始まる基準である。それゆえ明君は、その初めのを守る事によって万物の始原を知り、その基準を収めることによって成功と失敗との兆しを知る。そこで、虚心の静けさに身をおいて、すべての名が名のほうからあらわれ、すべての事が事のほうで定まっていくように、じっと待機する。虚心であらわすようになるから、そこでその実績と言論をつきあわせて一致するかどうかを調べる事にすれば、君主自身は格別なことをしないでいて、その実情にまかせていけるのである。
以下省略


次に


※本文参照
君主が家の戸じまりをなおざりにして入り口を固めないでいると、やがて位をねらう虎があらわれることになるだろう。事を慎重に行わないでないじょうを隠すこともしないでいると、やがて陰謀の賊が起こることになるだろう。
自分の主君を殺してその地位にとってかわり、だれもが恐れて服従する、そこでそれを虎というのだ。自分の主君の側にいて主君の秘め事を探りだそうとする、そこでそれを賊と言うのだ。


人の君たるものには五つのふさがりがある
臣下が君主の耳目を閉ざしてしまうのが『ふさがり』であり
かってに命令を下す
かってに理屈をとおす
臣下が私党を組む
君主の耳目をふさいでしまう
こうなると、君主は位を失うことになり、国の財政を握られ、恩徳の権利を剥奪され
君主は統制、をコントロールする名文、味方、権利を略奪される事になる。
これらの権利は君主だけが自由にすべきことであって、人臣が手にしてはいけないのである。
以下省略。


しかし、なんでこんな韓非子といった歴史的な賢者の政治術の本が世にでているのに
その理論を全て裏切っているような日本の政治体制は


どういう事?って思いますね。


賢者は歴史から学び、愚者は自分から学ぶ


これの意味は愚かだとか、賢いではなく


自分から学んだ所で近代文化での100年分しか成長がないし、失敗からしか、答えは学べない国が争い、滅び、最も聖人や政治家が必要とされた時代の賢者の方が重みも覚悟も境遇も桁が違うと言う事ですね。


韓非子の一文にこうあります


『 古代の聖王達は、こう考えた
自身の能力だけで、邪臣、群臣を従えるには時間も膨大に必要な上に、能力がおいつかない、だから現代でいうなら徹底した法律のみで従う方法を考えた 』と
親であれ、子であれなんであれ法律がすべてであるという、統制の術ですね。


賢者は歴史から政治の統制術や心理学を平和や社会に役立てようと学び、愚者は自分の人生から自己満足の悟りを開こうとする


と訂正するべきですね。