韓非子 (著者 金谷治) 第一巻 10項 十過
韓非子 (著者 金谷治) 第一巻 十過(君主として注意すべき十の過誤を述べたもの。)
※本文参照
十の過ちについて。
第一 小さな誠実をとりあげていると、大きな誠実をさまたげることになる
第二 小さな利益にひかれていると、大きな利益をそこなうことになる。
第三 行動がかたよぅて、かって気まま、外国の諸侯にも無礼なことをしていると、やがて身を滅ぼす結果になる。
第四 政務に耳を傾けないで音楽を聴くことを楽しんでいると、やがて身を滅ぼす結果になる。
第五 貪欲でいねくれて利益ばかりを求めていると、国を滅ぼして命をおとすもとになる。
第六 音あの舞楽におぼれて国の政治をかえりみないでいると、わが身を危険にする
第七 調停を離れて遠くに遊び、いさめる人を無視していいると、わが身を危険にさらす
第八 過失をおかしながら中心のことばを聞き入れず、ひとりで自分の思ったとおりにしていると、名声を失って人の笑いものになっていく始まりである。
第九 内には自分の力をよく考えず、そとは諸侯に頼っていると、国土をけずりとられる心配がやってくる。
第十 国が小さいのに礼を守らずいさめる臣下の意見ももちいないでいると、世継ぎの続かない形勢である。
※第1について小さな誠実とは?
昔、共王とレイコウが戦い共王が敗れたときの話になる
戦時中に将軍の司馬が酒乱であるがゆえに酒を飲まないといいながらも、
部下が気をきかせて
『 こんな少量は酒ではございません、これは将軍にとっては水同様です 』
みたいな洒落を聞かせて酒乱の将軍に酒を飲ませてしまって将軍は湖を飲むが
ように水(酒)を飲んでしまい、共王が明日も攻め立てようと相談に向かった所、陣内は酒の臭いがするので、共王はこう思った、『 これは国家を愛するという忠誠心ももはや無く、わが民のことも気にかけぬという事だと、わしはもう戦うのをやめよう 』、
いう内容で、その時に軍の指揮は崩壊し後に司馬
は斬り殺され大罪のみせしめとなったわけである。
※これは三国志の漫画でもチョウヒを舞台とした似たようなシーンがありました。
※第2小さな利益とは?
昔、献公は虞の国に道を借りてカクの国を討とうと考える。
策略として壁玉(宝石)と馬4頭(名馬)を送り、道を借りて討つ計画をたてた
、王は疑問をもった『 もし贈り物だけ貰って道を貸さないとしたら損じゃないのか?』
策士は言った『 いえ、あちらで道を貸すつもりがないなら贈り物は受け取りません』
『 逆に、受けとって贈り物を手にしても、内倉から外蔵に預けいるだけです まぁ
結局は討つわけですから 』
そして交渉にいった、敵方の策士はそれを見抜き『 許してはいけません、滅ぼされますといったが』敵方の王は欲深くそれらを欲しがり聴きいれず、ついには策のままに
大敗した。
※これから思うのは詐欺師とか悪いビジネスマンはそうで、最初に性欲でフットインザドアをやろうとする、保険の契約をとりたいから初めてにコンパをセッティングできるとか、女をネタに契約させようとするのが経験上多かった。
さらには愛人をネタに支配しようとする輩もいた。
私にはそんな邪臣の様な心理学は通用しないけどね。聖人はそれを見抜けるから『聖人』
という位が与えられるわけです。
第3の行動が偏るとは?
昔、霊王はある土地で諸国の会合をとりしきったが
、ある太子が遅れてきただけで捕らえて牢に入れ、他の主君を馬鹿にし、他の臣下を
拘留した。霊王の臣下が助言した『 諸侯を会合させるには、礼を欠いてはなりません。このたびの会合こそはわがくににとっての存亡の分かれめです。事の大事をいろいろな文献をもちいて説明した。』しかしそれを聴きいれず、霊王は群臣達においこまれ滅亡した。そこで、『 行動が偏って勝ってきまま、外国の諸侯にも無礼なことをしていると、やがて身を滅ぼす結果になる。』というのである。
※主観だけでは世の道理を統率できないので、群臣や聖人とはそれらを補助する、制御する為にいると考えれないと暴君で終わるという事です。
自民党以外の党首が話す内容だと、日本は日本でだけでやれる!みたいな
え?これまでの他国からのサポートをすべて裏切り、無視する発言って狂ってる
宣戦布告なだけやろって、こういう人をさすのです。
いきなり、動物は人間よりも尊いので、動物を粗末にすると処刑するといった
狂った殿様が戦国時代にいましたね、血液型を調べてみましょう、爬虫類が大好きな
血液型であり、政治家でも海外にいきなり宣戦布告する人達はみな同じ血液型です。
第4以降は後は芸術に時間をあてすぎたろ、余裕かましすぎて政治をなめてたり、政治から離れている時間が比例して、群臣達や他国から滅ぼされるという名言です。
以下省略。
これらからイメージするのは安部首相がある芸能人とアイドルとご飯行きましたが
それこそ、まさに韓非子の掟にはんし、釈迦や孔子のような仁徳の尊さを忘れ、民を思う気持ちが遠のいた事だと感じ、韓非子ならきっと『 近代国家の政治家の限界なのかなと 』嘆くでしょう。
現時代の政治家に求められるものは、釈迦や孔子のような仁徳、心理学として韓非子のような帝王学、そして時代にあった次世代の韓非子の育成と魂の継承であってほしいものです。
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