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中国古代の儒教家から、帝王学、社長、民衆、政治の心理学を学ぶ。

韓非子(著作 金谷治)第一巻 三項 難言について  

※本文参照


私め韓非は、申し上げることをためらってしぶっているわけではありませんが、
申し上げるのがはばかられる理由は、こういうことです。ものの言い方を、殿さまの
好みに合わせて美しく滑らかにし、のびのびと広がってつづいていくようにすると、殿様からはうわべの華やかさだけで実がないと思われるでしょう。
まじめ一方で慎み深く、手堅くて落ち度のないようにすると、殿様からは話し方がまずくて筋が通っていないと思われるでしょう。
そこで雄弁になってしゃべりたて、例えを挙げて例を引くようにすると、殿様からはないようがなくて無益だと思われるでしょう。


※相性が悪い君主への進言する事の難しさを意味する。こういうのが何項目か例えて続く


そこで、基準にかなって正しいからと言って、申し上げたことが必ず受け入れられるとは限りません。筋道がたって完璧だからと言って、申し上げたことが必ずもちいられるとは限りません。軽くても悪口か非難だと言われ重い場合は災いや非難がふりかかって
資材で命を失うことにもなりましょう。


※ここから事例が書かれています。


孔子は弁舌に巧みであったのにキョウの人々は彼を包囲した。
斉の管仲はまことの賢者であったのに、彼は国に捕らえられた。
これらの賢人だったのに君主がボンクラだったが為にこんな目にあった。


イインという優れた知者がいたが、優れた聖人(湯王)に70回説いたが受け入れてもらえず
イインはそしてある行動にでました、その聖人の料理人となり身近で慣れ親しむようになってから初めて、賢人であると認められた
だからこそ知者が愚かな君(当主)に説いたのでは、必ず聞き入れられない



周の文王が殷のチュウ王に説いたのがその例だと書かれています。


※文章は省略して飛びます。


みな世間の認める仁徳の賢者で誠実善良な人であり、道術を身につけた天才
ばかりです。ところが、不幸な事には道に外れた狂った君主に出会い命を落としました。


※ここからは韓非子の悟りの境地です。


たとえ聖人、賢者であっても、殺されたり辱めを受けたりすることを避けられない
というのは、どうしででしょうか?
つまりは、愚かな者には説得するのが難しいからです。


※この名言から連想するのは『 上から目線 』という言葉です。
もし知者や賢者が悟りの境地で道理を説こうとすれば、愚者にはなんて偉そうに
、なんて私を馬鹿にしたような内容なのだと、なるし。
それらを巧みな心理学として悪用したい者は、嘘でも見栄をはりウンチクだけで
道理を無理やり説こうとする
現代のモンスター上司でいうマウントをとる作業に似ている。


私的に解釈するに狂化してしまった狂人には、仁徳、道徳で再教育はもう手遅れだという事です。


※この韓非子の言葉は素晴らしいと思います。


それに、すばらしい最高の言葉というものは、耳に逆らい心にそむくものですから、
聖人、賢者でなければなかなか聞き入れることができません。大王さま、どうかここの
所をよくよくお考え下さい。


※私的に解釈するに、賢者は賢者にしか理解できないほど感性、知性、品格、人生経験とマッチングして初めて理解を共有できるものだ、なぜそれが何も求めず、欲に貪られ、ただ他人を頼るだけの愚者とマッチングできるのかという事だと思います。